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地下歓楽街―Information―

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2月2日17:03に、祖父が亡くなりました。
ようやく80になったばかりでした。

しばらくは喪に服し、裏の更新を控えます。


続きは壮大な自分語りと懺悔です。
興味ない方はスルーしてください。

……吐き出したかったので書きましたが、そのうち消します。



先週末に帰省したとき、数年ぶりにまともに両親と話をしました。
「祖父の最後には立ち会いたいから連絡して欲しい」と頼み、それからは毎日母から電話を貰うようになりました。

その中で容態が持ち直しつつあると聞いていため、2月1日の夜に「危ないかもしれない」と聞いても、来週末に帰るまでは大丈夫だろうと思い、過信していました。

2日の昼頃に弟から電話があり、「意識がなく、呼吸が不規則になって、酸素濃度が徐々に下がっている。手足がパンパンにむくんで、もうダメかもしれない」と告げられました。

事実上の危篤宣告です。
2ヶ月前にバーゲンで見かけて軽い気持ちで買った喪服と就活用に購入したパンプス、数日分の着替えなどを大急ぎで旅行鞄に詰め込み、万が一の事を考えて、新しい会社の人事の人(そこしかメアドがわからなかった……)に、月曜からもしばらく休む可能性があることをしたためてメールを送りました。
空港で一番早い飛行機を取り、弟に電話すると、彼は「容態は悪いままさっきから変わっていない」と答えました。「いつその時が来るかわからない」とも。

福岡空港に着き、一番早く病院に着くと思われる高速バスに飛び乗り、停留所に迎えに来て貰えるよう伯母に頼んだ時も、まだ大丈夫だとずっと思っていました。
だから、こことは別に取得したネタブログにコメントしたりして、気を紛らわせていました。

でも、高速バスが国際ターミナルを出てすぐに、訃報が伝えられました。
「遺体は家に戻すから、もう病院には行かなくていい」という言葉とともに。

結局、予定とは別の停留所でバスを降り、伯母の迎えで家に帰りました。
1週間ぶりの実家に帰り着いたとき、祖父の遺体はすでに到着していました。
祖父の体はまだ温かく、眠っているようにしか見えませんでした。でも、まったく動きません。当然ながら脈も呼吸もありません。

前日に母から電話があった時点で帰省すると決めていれば、間に合ったのです。
冷静に荷造りできていれば、1つ前の便に乗れて、最後の瞬間にだけは立ち会えたかもしれないのです。
父親と葬儀屋が打ち合わせする横で、間に合わなくてごめんなさい、ついていてあげられなくてごめんなさいと、祖父に詫び続けました。
もちろん返事はなかったけど、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。


葬儀は、弟と父の強い希望により、自宅からあげることになりました。
私も、斎場でやるより、実家から送ってあげる方が祖父も喜ぶと思ったので、反対はしませんでした。
祖父は10年ほど前に遺影用の写真を撮影し、京都にある浄土真宗の本願寺で法名(他宗派の戒名に相当)を貰っていました。そのためバタバタする事はほとんどなく、祖父の遺体を奥座敷に寝かせ、お悔やみに来てくださった弔問客の応対をしているうちに1日が終わりました。

宮崎にいる末の弟だけは、大分の山奥の方にスノボ旅行に行っていて、連絡が取れたのは日付が変わる直前でした。しかも、その時、事故に巻き込まれて警察署で事情聴取を受けている真っ最中だと判明。スーツなどを取ってくるために一旦宮崎に戻る必要があるということで、帰ってくるのは翌日の夕方とのことでした。


明けてお通夜の日、実家に菩提寺から借りてきた祭壇が組まれました。
近所の人たちの助けを借りてセットされ、さらに葬儀屋と葬儀屋が手配した花屋が準備を整えていきます。
祖父はドライアイスとともに白い棺に入れらました。

お通夜が終われば、次は火葬です。
大好きだった祖父が、灰と骨だけになってしまいます。
それだけは止めさせたかったけれど、私が何を言ったところで状況は変わりません。
ずっと棺の前で「早く起きて」と言い続けたけれど、やはり私が何を言ったところで状況は変わりません。
手紙と、病室で持っていてもらおうと思って撮った私の写真を棺の中に入れました。

2月4日、朝9時。祖父は荼毘に付されました。
私はようやく会社に忌引きの連絡をし、水曜日までの休みをもぎ取り、地元の友達に泣きつきました。
祖父の最後に間に合わなかった事、祖父に孝行してあげられなかった事、変わり果てた姿を見たくない事など、仕事中の友達には悪いと思いながらもぶちまけ続けました。

祖母に骨を拾いたくないと言ったものの、叱られてしまい、ちゃんと拾いにも行きました。
不燃物を無理矢理燃やそうとした時の何とも言えないような匂いが立ちこめるなか、祖母に背中を押されるようにしてその部屋に入ると、祖父の骨は、手足の指と肋骨がすべて燃え尽きてなくなっていました。
頭蓋骨はひっくり返っていて、物言わぬ眼窩を見ずに済んだからなんとか自分を保てたのだと思います。

祖父の死因は肺炎でした。肺気腫も患っていました。2年前の夏には甲状腺ガンの摘出手術も受けていました。その為でしょう。『悪いところだけ燃え残る』とは聞いていましたが、肺と膀胱あたりは血管まではっきり見えるほどに残っていて、火葬場の方が除けたと聞きました。

その場にいられなくてすぐに部屋を出ましたが、全部の骨や灰を拾わずに他の人たちも出てくるのを見て、今度は別の事が耐えられなくなりました。
祖父の一部だったものの一片さえ、そこに残していきたくなかったのです。
祖父が所有数する山のどこかに散骨できないかと食い下がりましたが、そのためには手続きがあるとかなんとか言われて周囲に諭されました。
そこで諦めるべきではなかったと、思い返すたびに痛感します。


家に戻ると葬儀が始まりました。
最後に孫を代表して弔辞を読みました。
生きている祖父に言いたかった感謝と謝罪のメッセージです。
極楽浄土に行ってしまった祖父のもとに届くと良いのですが。

 


話は少し飛びますが、この一件で、ようやく両親と和解できました。

私の父は10歳の時に養子縁組して今の家に入りました。
でも、父の実の両親は実家の向かいに住んでいます。
養子縁組の際に、祖父が向かいに家を建てて実の両親を住まわせたのだと聞いてました。

その所為もあるのでしょう。
父は祖父母のことを「じいちゃん、ばあちゃん」と、私たち兄弟視点での呼び方をして、祖父母の前でも実の両親の事を「父さん、母さん」と言っていました。

年子で生まれた弟が病弱だったため、幼少期のほとんどを祖父母と共に過ごした私は、祖父母をないがしろにする父が許せませんでした。
いくら祖父が優しくてその事を気にしていなくても、祖父の直系の孫ではない事を気にしていたので、余計に腹が立ってしょうがなかったのです。

父は、通夜の最後の喪主挨拶で、始めて祖父を「父」と呼びました。
40年間、一度も「父」と呼んだことがなかったそうです。
「呼ぶ資格がないと思っていた」と言っていました。
できれば、一度くらい祖父に直接言ってあげて欲しかったです。

今になってようやく父も悔やんでいたと気付きました。
火葬場で祖父の遺体が炉に入れられた時、一番近い場所で泣いていたのは父。
祖父の骨を最後まで拾い集めようとしたのは、父の実父でした。
私の知らないところに、口にできない想いがあったのだとわかりました。


懺悔とか感謝の気持ちとか、祖父に直接言いたかった事がたくさんあります。
でも、もう伝えることはできません。
せめて夢で逢えたらと思い、実家にいる間ずっと霊前で寝起きしていましたが、私の所には来てくれませんでした。

まだしばらくは立ち直れそうにありません。

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